分類(classification)は,主体であるヒトが行う,ある基準に基づいて対象物から成る群を認知する行為である。したがって,分類の基準と手法を論じる分類学(taxonomy)は,生物としてのヒトが「最も自然」とみなす自然界の認知分類方法を論じるのが本務であり,系統や進化と関連づける必然性はどこにもない。むしろ,現代的な意味での分類行為の認知的基礎を明らかにし,その人類学的なルーツを探ることの方がより有益であると私は考える。その上で,ヒトにとっての「自然な認知」の満たすべき諸条件を明らかにできるならば,分類学者が永年にわたって求め続けてきた「自然分類」の客観的基礎が得られるのではないだろうか。分類学は,認知科学や情報理論と積極的に結びつけば,われわれ人間の精神活動の根源に迫ることが可能かもしれない。 実際,分類学は狭い意味での生物学の垣根をすでに越えて,周辺領域の学問分野に広まっている。民族生物学(ethnobiology:Berlin et al. 1973, Berlin 1992)や民俗分類学(folk taxonomy:Atran 1990)など,文化人類学の分野で進められてきた認知分類の研究成果-― ヒトはどのような分類を自然と感じるか,自然な分類階級の数はいくつか,など― は,現代分類学にもそのまま適用できるだろう。科学哲学の認識論においても,推論過程の生物学的基礎について研究が進んでいる(Kornblith 1993)。また,過去数百年にわたって自然誌の研究に携わってきた人間たちが提案してきた生物分類体系の特性を統計学的に調べた研究もある(Holman 1985, 1992)。 これらの研究は,生物分類の認知科学的な「根」を探ろうとしており,さらに調べれば,ヒトが自然界の多様性をどのように認識してきたかという生物分類学の最重要問題の一つが明らかにされるのではないだろうか。そして,分類学者の大脳がその分類的直観(taxonomic instinct)をどのように働かせてきたのかを解明すること(Stevens 1990)も不可能ではないだろう。ヒトが認知するように分類せよと主張する「大脳辺縁系分類」(limbic taxonomy)の主張の根拠もそこに見出されるかもしれない。分類認知がヒトに固有の心的器官(mental organ:Chomsky 1980 )である精神のもつ深層的な規則性の現われであるならば,その認知の特性を調べることにより,精神の内的規則性に光が当たると期待できるだろう。 一方,対象生物の時間的変化を論じる系統学(phylogenetics)は,このようなヒトの認知行為の特性を研究する分類学とはまったく別次元の知的行為―すなわち,進化現象に関する未知のパラメーターをデータに基づいて推定すること―である。ここでいうパラメーターとは,系統の分岐順序(樹形)・分岐点の形質状態(祖先形質)・形質進化速度などである(三中 1995a, b)。系統学は,これらのパラメーターを経験的に推定することにより,対象物がたどってきた過去の進化史の様相を復元しようとする。 系統学で問題になるのは,推定方法の可否・背景仮定・精度である。たとえば,分岐学的な最節約原理に基づく系統推定法では,それが進化プロセスに関してどのような背景仮定を置くのか,どんな状況で系統推定法として妥当なのか,その精度はどうか,などが考察の対象となる。この問題は,単純性にまつわる中世認識論からの知的系譜の中で議論しなければならない(Sober 1988, 三中 1996b)。分類学とは異なる問題状況の設定が系統学には必要である。 歴史の様相と過程を現存データに基づいて復元しようとする系統学は,明らかに広義の「歴史科学」(historical science)に属しており,分類学が含まれる「認知科学」(cognitive science)とは別種の科学である。 一言でいえば, 分類=パターン認識 系統=パラメーター推定 と要約できる。OユHara (1988) は,分類学と系統学のこの基本的思考のちがいを,それぞれ群思考(group-thinking)と系統樹思考(tree-thinking)という言葉で対置させている。この点については,三中 (1996c) で詳しく論じる。 原理的に無関係である分類と系統をあえて関連づけようとした1940-50年代の進化分類学者(evolutionary taxonomists)の動機は戦略的だった(Vernon 1993)。今世紀始めに時流に乗った実験生物学の蔭であえなく凋落した分類学を,進化の総合学説と絡めることにより,再び復興させようとしたのが,Ernst Mayr であり George C. Simpson だった。彼らが,従来の記載分類を「α分類学」の名のもとに,進化・系統研究(=β,γ分類学)を行なうための(必須の)「前段階」に位置づけたのは,この直線的序列のもとでは分類行為が進化研究の出発点という付加価値を持つからである。当の分類学者がこのような位置づけを歓迎したかどうかとは無関係に,少なくとも「α分類学が進化系統学の基礎」という神話だけは,現在にいたるまで着実に浸透していったように私は考える。 しかし,分類をむりやり進化・系統に結び付けると必ず歪みが生じる。なぜなら,分類学的認知と系統学的推定が整合的である保証はどこにもないからである。現在の「分類学者」は,系統樹が彼らの認知する分類パターンと一致しないとき,「単系統的なクレードだけが分類群ではない」と反論するのがつねである。この反論は無意味である。分類群の「認知」に系統なんか最初から無関係ではないのか。系統樹がどんな形をしていようが,生きものとしてのヒトが認知する「群」はそれとは異次元の基準で認識されているはずである。系統樹がある樹形であると推定されることは,特定の分類群の認知を立証するわけでもなければ反証するわけでもない。分類学的認知にとっては,系統学は実に軽い意味しかもっていない。 その逆も当然成り立つ。系統学的推定は,その時点で入手し得るデータに基づいてある歴史パラメーターの推定値を求めるだけである。したがって,たとえばある系統関係の推定の結果,分類学的認知に反するクレードが支持されたとしても,分類学者に気兼ねする必要はいっさいない。伝統ある分類群が壊れようがなくなろうが系統学者の知ったことではない。重要なことはその系統関係が現在のデータでは支持されているということ,ただそれだけである。系統学にとっても分類学はきわめて軽い意味しかもっていない。 分類学と系統学が相異なる知的行為であること,すなわち「共生者」ではなく「競争者」であることが理解されたならば,ある研究目的にとって,いずれの分野がより有用な情報を提供するかを比較することができる。たとえば,比較生態学における種間比較の問題は,分類体系と系統樹が互いに競争者であることを印象づける。この種間比較の基準を系統樹に置くか,それとも分類体系に置くかは,そこから引き出す帰結に差違をもたらす。そして,いくつかの研究例では,分類体系をベースにした比較は系統樹をベースにした比較よりも誤った結論を導く可能性が高いことが示されている。種間比較の世界では,分類学は系統学よりも適応度が低いと言えそうである。 おそらく,上の結論は無条件に一般化はできない。ある学問分野が有用な情報をもたらすかどうかは,研究目的に全面的に依存しているからである。進化生物学の主たる問題意識は,「いまその形質がどんな分類群に分布するか?」ではなく「その形質がいつ進化したのか?」にある。このことが,系統への傾倒を種間比較に求めたことは明らかだろう。ひょっとしたら,別の研究目的(それが何かは私にはわからないが)にとっては,系統ではなく分類が役に立つかもしれない。ここで,重要な問いかけが残される:
1)分類学的パターン認知は「誰」にとって役に立つのか? 2)分類学的パターン認知は「何」にとって役に立つのか?
この疑問に対して生産的な回答を提出することが,認知行為としての分類学の適応的意義を立証する残された唯一の道であると私は考える。
日本においては,「系統分類学」という誤った訳語が phylogenetics や systematics に対して広く用いられてきたということからもわかるように,従来から系統学と分類学との婚姻関係をことさらに強調する風潮があった。それは系統学にとっても分類学にとっても不幸なことだった。なぜなら,「系統分類学」という言葉は,<非系統>分類学と系統<非分類>学との世界観の違いを曖昧にしてしまったからである。 生物学史を遡れば,分類学は確かに系統学に先行している。しかし,時間的な前後関係は,学問としての依存関係とは何の関わりもない。ただ歴史が古いからというだけの理由で,分類学は系統学の前提であるという漠然とした直線的関係を想定するのは,論拠のない牽強付会である。 私が考える分類学と系統学の関係を図に示した。分類学と系統学はもちろん対象(サンプルされた生物の個体)は同じである。しかし,分類学は,このデータベースから出発して,種の記載を行ない,次いで分類体系を構築する。一方,系統学は,同じデータベースから出発して,進化プロセスに関わる系統関係の推定を行なう。出発点であるデータ自体を除けば,両者の間に交わりはまったくない。分類構築と系統推定では,解こうとする問題がそもそも異なっているからである。 分類におけるヒトの認知規準を重視する分類学者の見解が最近聞かれる(池田 1992, 馬渡 1994)。おそらく彼らは「系統」のしがらみが窮屈になったのだろう。一方,系統学者は,かつてはリンネ階層のもとで長らく呻いていたが(Griffiths 1974, Wiley 1979, 1981),ここにきて伝統的分類体系の束縛に対して反乱し始めている(de Queiroz and Gauthier 1992)。彼らもまた「分類」の足枷についに耐えられなくなったのだろう。 もうそろそろ分類学と系統学は互いに相手から解放され,それぞれの道をしっかり進むべきではないだろうか。偽りの蜜月はもう終わったのである。
(図)
あとがき:仙台ワークショップに参加して ― 妖怪ブンルイガクとの接近遭遇
(1)「自然な分類を!」なる祈祷文 Stevens (1990: 387) は,「ヒトにとって最も自然な分類方法」(the way human minds naturally classify)を神経分類(neural classification)と命名しました。神経分類と合致する分類群を体系学者は認めるべきである,という主張は,認知分類の拠り所になっています。植物分類学の世界ではこの神経分類を目指そうとする動きがあると Stevens は指摘していますが,ご存知のように現在の日本の動物分類学にもあからさまな神経分類への憧れが見られます(池田 1992, 馬渡 1994)。 「自然分類」という言葉は分類学では魔力を持っていました。体系学の歴史を少し遡れば「自然の体系」(natural system)とか「自然の方法」(natural method)という表現に頻繁に遭遇します(三中 1996a)。分類を行なった人間は自分なりの「自然分類」を思い描きつつ分類していたはずです。科学史的にいえば,「自然分類」は「系統分類」ではありません。両者は時代を異にしているから同列に議論することはそもそも無理です。系統分類が自然分類であると言い張ることは分岐学者にとっては当たり前のことですが,そんな言い分は神経分類学者には当然通用しません。もともと「自然〜」という表現自体に説得力は何もありません。むしろ問題なのは,「自然」という言葉がそれこそ自然に神経分類への道を開くという点でしょう。 分類学は,19世紀の進化論の大波を逃げ切ったと言われています。20世紀半ばの総合学説の大波も逃げ切ったとされています(Vernon 1993)。ひょっとしたら分子分類学だって形態分類学者なら逃げ切ってしまうかもしれない..。 このように分類学が「逃げ切れた」のは,分類学の方法論がもともと正しかったから(馬渡 1994)という見解が聞かれます。仙台のワークショップでも:現在の分類学では当然のことながら,「自然の類縁」が神の意思からダーウィン流の「進化」に変わってはいる。逆に言えば,それだけの違いである。という発言がありました(村上哲明:「これから植物分類学はどこへ行くべきか?」)。 「分類しよう」という group-thinking の立場にこだわる限り,God → Darwin の移行は「それだけの違い」でしかありません。つまり昨日までは「自然分類」を目指してきたが,今日からは「系統分類」と看板を付け替えて「同じ作業」を繰り返す..。こういう不感症を指して,Turrill (1942: 676) は皮肉をこめてこう言っています:
系統とはなんと都合のいい言葉であることか。それは分類学を学生に教える教師にとっては葵の御紋である。しかも,系統に何の関心も知識もない教師ほどその言葉の恩恵にあずかれる。
進化の受容が単なる「看板の付け替え」ですまされてしまうということは,分類学の実践にとっては結局「進化・系統」というものはあってもなくてもいいことという意味でしょう? それは,いいかえれば旧来の group-thinking という「ものの見方」を温存しつつ,学問としての経営戦略上,うわべだけ「進化・系統」を吸収した振りをしているだけということです(いまだに)。 酒井聡樹さんは,村上さんの言わんとするところは「自然分類に基づくパターン認知」であると見抜きましたが,その通りだと私も同意します。村上さんは:分類学が昔から目指してきたものは単なるパターン認識ではなく,「自然分類」であると冒頭で言っています。しかし,group-thinking にトラップされているかぎり,どうあがいたって「パターン認知」の結界からは逃れられないんですよ,村上君。
(2)「役に立つから」による集団催眠 リンネの時代の自然誌における分類体系は,記憶術そのものであったといわれています(Lepenies 1976)。増大し続ける生物に関する情報をいかに効率よく要約し,整理し,覚えやすく体系化するか−これは分類学が宿命的に背負っていた課題でした。 「分類体系は役に立つ/そこに分類をする意義がある」−仙台で呪文のように刷り込まれたおまじないです。でも,本当にそうなんですか? ある分類体系が「役に立つ」かどうかを本気で調べてみたのかどうかが問われているのです。分岐分類体系と表形分類体系の間では,15年以上も前にすでにこの問題には決着がついていて(Farris 1979),系統樹を直訳した分類体系の方が情報量がより高いことが示されています。 では,神経分類の情報量はどうでしょうか。それは,わかりません。どの形質をどのように選び,重み付けしているのかが全然わからないからです(Stevens 1990: 393)。でも,多くの情報を総合的に判断して構築された分類体系はやっぱり役に立つだろうって? 「総合判断して」なんていういう言葉は「主観的に」のシノニムですよ。情報量の比較がきちんとできないという点で,神経分類は,表形分類の足元にすら及ばない「問題外の外」なのです。 情報性とか有用性をきちんとチェックしてもいない分類体系をどんな根拠で「役に立つ」と言い切れるのでしょうか。村上さんは,分類体系は「当の分類学者本人にとって役に立てばよい」と言いました。もし分類体系が特定個人にとって有用であればよいというのであれば,あえてそれを妨害したりする野暮なことを私はしません。ただ,そういう「ブンルイ」はやたら人前に公表しないで,パスワード付きのホームページか鍵付きの味噌蔵の奥にでもしまっておいて下さい。
(3)「名前がないとね」という強迫神経症 「もし名を知らないなら,事物の認識は消えうせる」(Carl von Linn 1751. Philosophia botanica)。標本を記載するということは種を(形態に基づいて)記載することであり,記載種がなければ先に進めないではないか,と仙台ワークショップで大橋さんは主張しました。しかし,形質情報のすべては調べた生物個体(標本)に存在するのであり,種記載をしたからといって生物学的情報が増加するわけではありません。種に名前を付けなければならないというのは,「名前があれば便利である」と主張しているに過ぎず,生物学的に不可欠ではありません。 少なくとも,系統学にとっては種名は不要です。だって,系統解析するのに種名がいったいいつ必要になるのですか? 種名がなければ系統関係は解明できないなんて聞いたことないですよ。分岐図の末端にあるのは,遺伝子・個体・個体群などさまざまな対象物(実際にデータを取った対象)です。「種名」をそれらの対象物に付けるのは勝手ですが,種の名前を付けたからといって,その様態が解明されたわけではありません。むしろその解明は,系統解析が行われた「後」でなされるべきものであると私は考えます。 むしろ,種記載をしたことで,その時点では実在性が保証されない「種」なるものが一人歩きする方が弊害があるのではないでしょうか。その点,大橋さんが「記載種には実体はないかもしれない」と率直に認めていたのは印象的でした。ただし,「種がすべて単系統的であると仮定しなければならない」という大橋さんの主張は,明らかに現実的ではありません。種を単位として記述するならば,子孫種が派生した元の祖先種は自動的に非単系統的になるからです。 しかし,種ではなく,むしろクレードすなわち単系統群を単位として歴史叙述を行なえばもっと便利ではないでしょうか。つまり,あるクレードの発生と絶滅に着目して系統発生を記述するということです(OユHara 1988)。このとき,非単系統的な存在は命名する必要がありません。クレードだけに名称を与えればそれですむわけです。この命名の精神は,分岐図のすべてのクレードを命名するという系統分類学(phylogenetic taxonomy:de Queiroz and Gauthier 1992)に直結します。
(4)悪霊退散!:「認知地図」としての分類体系 認知心理学には「認知地図」(mental map)という概念があります。認知地図とはヒトによる地理的空間認知を図式化したものです。各個人にとっての認知地図は各人の認知システムを反映して固有の歪みを見せます。自然分類なるものがあるとしたら,それは生物多様性の「自然認知地図」ほかならないだろうと私は考えます。私が分類は認知科学だと主張した理由もそこにあります。もちろん,認知地図は一般に「真の地図」とは大きくかけ離れています。認知地図の構築では,「真実」からどれほど離れているかどうかは問題ではありません。人間がどのように空間認知しているかどうかを調べることがそこでの目的なのです。 一方,Willi Hennig (1966) の Phylogenetic sys-tematics の Figs. 37-38 (pp. 130-131) は,地図の復元にたとえて系統推定を説明しています。つまり,道路や河の配置という「形質情報」を手掛かりに,地図を復元することが系統推定であると彼は主張します。推定地図は「真の地図」と異なる(すなわち誤る)こともあるでしょう。しかし,重要なことは,未知パラメーター(「真の地図」)を推定することがそこでの目的であるという点です。 認知地図と推定地図とが本質的に「ものの見方」が別であるのとまったく同じく,分類学と系統学も本質的に「ものの見方」が異なっていると私は考えます。妖怪ブンルイガクを退治する護符は,ブンルイガクを否定することではありません(そんな生ぬるいことではダメです)。むしろ,ブンルイガクとの差異化を明確に行ない,系統学の「ものの見方」(tree-thinking)がそれとは違うことを認識させ,その上で分岐図を握りしめて相手と対決すればいいのです。悪霊退散!
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