若手学生の感想

(分類・院生) 種間比較をする際には扱っている分類群についてよく知らなければならない。それによって研究結果が左右されるのかもしれない。種の概念についての議論では,類型学的種概念以外の概念を実際どの様に適用していくのか興味を持った。以上が今回のセミナーの感想である。

(分類・院生) 今回のセミナーで一番感じたことは,それぞれの研究者の立場の違いによる同じ言葉に対する認識の違いでした。そのことから,今回のような議論を行う上で自分と異なる立場に立つ人が,同じ言葉や理論その他基礎的なことをどのように理解しているのか前もって知っておくことがいかに大切であるか考えさせられました。

(分類・院生) 分類学の未来を一番真剣に考えなくてはならないのは分類学者でしょう。しかしそこに多くの人が疑問を投げかけるという形で関心を寄せるのはこのような分野を必要とする人がいるということの証なのではないのでしょうか。だから,だ・か・ら・・・  全体的には分類学の未来を考える人と,現在の分類学について考える人とが自分の考えを述べるにとどまったので,議論の論点が最初から一致する事はなかったように思います。そこで,どうしていいか分からない,と言わずに,さあてどうしようかな,と前向きになる必要があるのですよね。  まず,種とはなにか? 上位分類群をどのように決めるのか? 系統樹をえた後,分類学はどこへ行くのか? どうあるべきなのか?  本当に対象物の認識自体はもう(単系統群でなくても)出来ているのでしょうか? 種を認識することへの努力はもういらないのでしょうか?  村上さんのいう “進化的な意味で自然な分類をする” ためには,どうも技術革新によって “再検討” する必要もあるような気がします。その意味で分類も “進化する物” のような気がします。しかし,種を “これが絶対的な種だー!!” と決定することや, “生物はかくかくしかじかこのように進化してきたのだ!” ということを客観的に証明することは現実的に可能なのか?と問われると急に元気がなくなってしまうような・・・(いったいどうすればいいのでしょう?)  そうかといって,生物は地球上に存在し続けるのだし,面白い生き物,現象も消えるわけではないでしょう。分類学ほど幅広い知識が要求される学問もないような気もするし,したがってなんでもありだー,ではやっぱりいけないのでしょうね・・・・

(分類・学部生) 今回は,分類学・系統学・生態学について興味深い話を聞くことができ,たいへんおもしろかった。種という概念が意外と不確かなものであること,分類学と系統学が扱うパラメーターが別次元であるということに気付かされた。地球上にどのような生物が存在しているのかを知ることは必要なことであり,様々なアプローチがあってもよいと思う。

(分類・学部生) 今回のセミナーの内容は,私には難しくて,理解しにくかった。私も自分で研究をするようになったら,系統関係を明らかにするまでの力を身につけたいと思っているので,もっと勉強しなければと思った。  生態学者の方々の質問,意見を聞いて思ったことは,生態学者の方々も,必要な系統樹を作ってみたらどうかということだ。そうすれば,分類学者も刺激を受けて,お互いに切磋琢磨するよい関係を保てるのではないだろうか。

(生態・助手) 1 系統学と分類学の関係について  系統は必要であるが,分類は必要ではない,という三中氏の主張に対して思うのは,じゃあ現実に論文を書く場合にはどうするのか,という問題である。現実に実験,観察をした植物をどのように記述すればいいのか? 三中氏は,系統樹があればいいんだ,という主張であったと思うが,マテメソに自分の使った材料の系統樹くらいなら書いてもいいかもしれないが,ディスカッションで他人の論文を引用するのにいちいち系統樹を書いてはいられまい(想像するとちょっと笑える)。というわけで,便宜的にせよ何にせよ名前付けは必要である。系統があれば分類はいらない,という主張は,系統樹を元にした名前付けをしてからすべきである。でないと結局何も変えられない。  一方で,村上氏は分類学も系統を反映した分類を目指してきた,としたが,酒井氏が指摘したように,現在の分類システムでは名前のない単系統が多く,系統関係を完全に表現することはたしかに難しかろう。したがって,本当に分類学が系統を反映する分類を目指すのならば,現在の分類体系を見直すところから始めなくてはいけないのかもしれない。便宜上の名前と系統樹上の位置情報を併記させることは考えていないのか? おそらく種の数より多いのではないかと思われる酵素には酵素番号がふってあり,一般的な生理,生化学の雑誌では論文を書くときには酵素番号を書くことが義務づけられている(ただし,性質がはっきりしている酵素はたかだか数千か万のオーダーらしいし,分類の仕方もたいしたものではない)。酒井氏の主張のように,数字で系統樹上の位置を示すことはできないものか? (しかしそれでは側系統が発見されるたびに数字がかわってしまう?)

2 種の認識について  村上氏の,「種の認識は多元的であるべきである」は納得がいかない。客観性のない分類は自然科学の姿勢に反していると思う。多元的にするにしても,せめて,ある優先順位に基づいた分類を行うべきではないか?(例えば,まず交配可能性で分類し,それで分類しきれないものには遺伝的距離を使うなど) 村上氏のレジメの「・・・一つの尺度だけにしたがって種を認識すれば,操作自身は客観的に行えるものの,分類学の生物多様性を記載・認識するという目的や,種の進化を考えるという進化生物学の目的とはそぐわない種の認識になってしまう」はよく理解できない。「そぐわない」というのは単に「分類学者の主観にそぐわない」だけではないのか? 

3 分類学のこれからについて  以下は非常に個人的な意見であるが・・・(ここまでもどちらかといえばそうだったが)。  私は,専門は何ですか,と聞かれると生理生態学です,と答える。しかし,生理生態学というカテゴリーは決して生態学や生理学と肩を並べるほど大きくはないので,どちらに属するのか,ということを考えさせられる状況はごくたまに訪れる。・・というよりは私自身は私はとちらかといえば生態学者だと思っているが,周りが必ずしもそう思わない(最悪のケースは,私のことを生理学者たちは生態学者と思い,生態学者たちは生理学者だと思いこんでしまうことである)。実際私は研究においては生理学的手法を用いることが多いし,生理学の雑誌に論文を書いたこともある。  私が(勝手に)決めた生理学者と生態学者の分類基準は,最終的にその研究者が明らかにしようとしている現象によって決める,というものである。この分類はその研究者が用いる手法によらない。私は生理学的手法を使ってはいるが,明らかにしたいのは生態学的現象なので生態学者である。  さて,この判断基準をもとにして分類学のこれからを考えてみると,まだ記載されていない種を記載する,という大きな仕事は間違いなく残っている。系統樹を書く,という仕事も(村上氏の主張に基づけば)残っている。しかし,「分類学のγ段階」とか,「系統樹があって初めて可能になる進化の研究」というのは分類学だろうか?  γ段階は,系統関係を考慮した形態学(あるいは生態学)にしか見えないし,「進化の研究」はやはり進化生物学だろう。系統樹はおそらくツールの一つでしかない。これからの分類学として,村上氏は遠藤・大場の仕事を引用したが,サクラ亜科における果実形態をもとにした従来の分類が誤りであった,ということは,外から見れば “分類学にとって” 重要なこととは思えない。一般的な学問では,何か従来の誤りが発見された場合に問題になるのは,その誤りが別の様々な誤りのもとになっている場合である。これまでの分類が細かいレベルでは系統を反映していないことは珍しくはなく,ここで誤りがあったからといって他の分類群の再検討をしなくてはいけない,といったことにはならない(というか,誤りがあろうがなかろうが再検討は必要)。むしろ彼らの仕事が重要な意味をもつのは形態学,あるいは生態学にとってであろう。  これから植物分類学はどこへ行くべきか,という問いがあったが,全ての種の記載が終わって(いつ終わる?)系統樹を描いてしまえばそこで分類学はおしまいであるはずである。そのあとで形態進化をやりたければ形態学を掲げればいいし,種の進化機構をやりたければ進化生物学,遺伝学や生態学を名乗ればよかろう。分類学という名前に固執する必要は全くないと思う。むしろ明らかにしたい目的と異なる学問の名前を掲げるのはこれから学問を志すものにとっては混乱となるだけだ(学問もちゃんと分類しよう! ただし,もちろん村上氏のように一人の人間が多数の学問を掲げるのを妨げるわけではない)。一方,村上氏のレジメにあるように一通りの種について系統樹を描くことを,「やればわかる研究をやるのは,あまりおもしろくない」と思っているのであれば,今以降の分類学の面白さって何?とは聞きたくなる。  系統と形態さえわかれば分類学者は満足なのか?という問いもある。多くの(進化生態学者以外の?)生態学者に系統樹以上に必要なのは,ある種における基本的な生態学的特性の情報である。例えばC3,C4植物の分化など,生態学的に重要な多くの形質は中立ではないので系統を完全には反映しない。生態学者の仕事の便宜性,という点ではこういった特性に着目して全ての種について整理してある文献があると楽である。いわゆる種生物学というのがこれにあたるのかもしれないが,浅くてもいいからもっと広く調べてほしい。分類学者はこういった方面には興味はないのだろうか。ちなみに日本のC4植物のフロラ,分布を調べたのは生態学者である(奥田・古川 1990. 日生態誌)。

(生態・院生)正確な系統を用いた分類が必要であるということと,高次分類群を設定することの便利さはよく分かりました。しかし,高次分類群の便利さ以外の必要性は残念ながらあまり理解できませんでした。もし,分類階級の重みが同じような高次分類があり,さらに,なんらかの形で全ての単系統が表せれば非常にすばらしいと感じました。  種についての議論は,種というものの定義がよく分からず,種とは何なのか疑問が残りましたが,種の定義を多元的に考えなくてはいけないと思いました。

(生態・院生) 今回のシンポジウムの目的は,分類学と生態学の接点を探るということであったようだが,生態学(者)にとっての分類学と,分類学(者)にとっての分類学は違うということを感じた。生態学(者)にとってはより便利な分類体系があればいいのであるが,分類学(者)にとってはそれだけではないのであろう。「分類学は何を目指すのか,分類体系を作ることに意味があるのか」と,「どのような分類体系がより便利なのか」とはおそらく次元が違う議論である。今回は2つの問題が同時に議論されていたため,噛み合わない部分があったように感じたが,テーマを絞ることにより,さらに面白い議論が展開されるのではないかと思う。

(生態・院生)  1.分類や種といったものは,名札としてきわめて有効であると思う。現在の体系がベストではないかもしれないが,ベターではある。  2.系統樹を書くために遺伝子を調べるが,使う遺伝子によって,異なる系統樹ができる,と本で読んだように記憶している。分類体系も,「パターン認識」によるものであるとはいえ,系統を無視して構築されているものではない。遺伝子をやれば正しい系統がかける,とは断言できないし,ただしい系統樹を書くための「たたき台」として分類体系が有用であると思う。  3.私は,異なる系統の中に同じ属と思われるような(つまり似かよった)形態がある,ということに面白味を感じる。系統が異なる生物間で,なぜ同じような形態が獲得されているのか。しかも,それが自然淘汰とは一見関係がなさそうな形態であるのに...(でも,これを扱うのは,分類の仕事の範疇を逸脱しているかも知れませんが)

(生態・院生) 今回のセミナは,種や分類群の意味について再考するうえで有意義なものであった。  ただ,進化が連続的なものであれば,種々の生物の形質は断続である必然はなく,(地球を一周する間に全く違った形質になる種もある)たまたま競争的排除や過去におけるボトルネック等の理由で現在の多くの生物の形質は断続的に見える。というのが僕の考えであるので,自然界に種,属といった分類群は存在するのか,という論点はいささか不毛なものに感じられた。むしろ僕は「分類群を置く意味は何処に残されているのか」,とか「分類群はどう “設定” すべきか」,「それぞれの単系統をどう表示すべきか」という点について考えさせられたと思う。

(生態・学部生) 分類する事と系統付ける事,分類学と生態学との関係を考える,という点では今回のセミナーは非常に貴重な体験だった。ただ,少し,残念なのは,分類学と生態学との間で統合された結論が得られなかった(と思う)事である。  「分類が,生物学の他の分野の役に立つことは,分類学にとってはあくまでも副次的なものである」(村上さんの要旨から)  これは,非常に納得がいく。しかし,出来れば,もう少し踏み込んで,”生態学にとっての分類の意義”についての意見も欲しかった。同じ事は,生態サイドに対しても言える(まぁ,なんて生意気な)。”立場を越えた見解”を求めるのは,素人の欲張りだろうか?

(生態・学部生) 今回一番印象に残ったのは,種についての議論でした。(単に勉強不足で知らなかったからなのですが)当たり前に存在するかのように使ってきた種というものが,自然界に存在するのではなく,人為的なものだと言うことからして驚きでした。  ほとんどの方が言っていらっしゃったように,分類体系を,系統を考慮して,もう一度組み直し,使いやすくすることが大切だと思いました。確かに系統樹があればいい訳ですが,個人的には,系統樹のみで更に記号化となると,味気ないような気がします。

(生態・学部生) 今回のセミナーでは,分類学の存在価値があるのかという問題が取り上げられていたが,系統学との矛盾等マイナス面を差しひいても,便利さを考えれば十分その価値があるのではないかと思った。また,分類学と系統学の相互の位置関係についての話も出てきたが,そのような位置づけをすることに意味があるのか,またそのようなことは不可能ではないだろうかと思った。