これから植物分類学はどこへ行くべきか?

今回はめずらしく保守的立場の 村上哲明(東京大・理・植物園)

[1]やっぱり系統学は分類学と不可分である! ― 分類学が昔からめざしてきたものは単なるパターン認識ではなく,「自然分類」である。生物の分類は,やはり系統と結びつけて行うべきである!  「自然分類」とはなにか? これは,種とそれ以上の高次分類群で異なると私は考えるので,分けて考察することにする。  まず種分類の方であるが,私も含め多くの分類学者は種は実在すると信じてきたし,今でも信じている。したがって,分類学者にとって「自然な種の分類」とは,「実体」のある種を認識・命名・記載することである。リンネの時代には種は,その中では均一で,かつ不変な存在と考えられていた。現在では,種は不変ではないことは明らかになった。しかし,種の実体がどのようなものであるかは,まだよくわかっていない。本当に実在するかどうかすらわかっていないのである。これを解明することは,現代分類学の重要な課題の一つであると考えている。このことは後で詳しく述べる。  一方,分類学者がめざしてきた「自然な高次分類」とは,やはり単系統群を認識することである。高次分類群を合理的に成り立たせるものは単系統性以外あり得ないと私は考える。リンネは,自らも告白しているように,植物を類型的に24綱に分ける人為分類を行った。しかし,彼のめざしていたものも,「自然の類縁(当時は神の意志によるものと信じられていたが)」を反映した「自然分類」であった。ちなみに,その後リンネが自然な群だと自信をもって設定したアブラナ科,キク科,マメ科は今でも単系統群と考えられている(岩槻 1993:「多様性の生物学」岩波)。  また植物器官学の基礎をつくったド・カンドルは,その著書「植物学の基礎理論(1819)」のなかで,未知の植物の同定に役立つことを主眼とした「人為分類」と植物の種間にある真の類縁関係を表現できるものとしての「自然分類」をはっきりと区別している。そして,ド・カンドルは「自然分類」をめざして,類縁関係を探るための方法の確立に挑戦している。現在の分類学では当然のことながら,「自然の類縁」が神の意志からダーウィン流の「進化」に変わってはいる。逆に言えば,それだけの違いである。これは,今日の系統に基づいて分類を行おうとする姿勢と本質的に同じであると私は考える。  もちろん,生物進化の思想が一般的に受け入れられる以前の植物学者達が生物間の「類縁」について,どのような意味づけをしていたかを今日,確実に推定することはかなり難しい(Heslop-Harrison 1969, New Concept in Flowering Plant Taxonomy)。しかし,もっと最近(20世紀)の話ならば,分類学者が系統に基づいた分類を行おうとしてきたことをはっきりと示すことができる。たとえば現在用いられているシダ植物の科・属レベルの分類体系の基礎をつくったCopeland は,1929年に出版した論文(Univ. Calif. Pub. Bot. vol. 16)の中で次のように明言している。

1.ランクを問わず植物の分類群は,進化的な意味で「自然」でなければならない。 2.植物の分類群は,便利(認識しやすく定義しやすい)であるべきである。

 今日では1は,ほとんど自明のこととして受け入れられている。2(便利さ)が,1(自然さ)に優先することは決してない。収斂によって,そっくりになった2群があるとすれば,それらを定義することが如何に難しかろうと,2つの異なった分類群として区別しなければならない。  以上から,少なくとも67年前には自然な分類群とは単系統群のことであり,分類学者が「自然分類」をめざしていたことは確かである。さらに最近になって,私の先生である岩槻邦男の時代になれば,本人の言明(岩槻 1996:ナチュラルヒストリーシリーズ・シダ植物,東大出版会)によってこのことはさらに明らかである。このように,分類学者は適当なパターン認識による人為分類ではなく,ずっと「自然分類」を求めて研究を行ってきたのである。確かに自然分類などできない(系統はどうせわからない)と不可知論を唱え,人為的かつ機械的に分類を行った研究者は,いつの時代にもいたようである。しかし,その人たちだけを取り上げて,分類学は人為分類をめざしてきたと考えるのは適当ではない。高次分類群を系統や進化と関連づける必然性は,少なくとも分類学者には存在したのである。個々の人間の認識だけにしたがった主観的な分類:いわゆる粕谷氏(九大・理,EVOLVE)の言う「大脳皮質分類」 or 「サル比べ」をすればよいと考える分類学者は,現在ではごく少数であろう。もちろん,これまで実際に分類学者がやってきたのは,単なるパターン認識ではないかという批判は甘んじて受けるつもりである。しかし,それは,これまでの技術では単系統群をきちんと認識することが困難だったからだけのことである。論理的に厳密な系統解析法である「分岐分類学的手法」と,究極の分類形質である「DNAの塩基配列」をその気になれば必要なだけ手に入れることが出来るようになった現在,単系統性に基づく高次分類をすることに対して,理論的には何の困難もないと私は考える。分類階級が多くなるとか,全ての単系統群に等しく名前が付かないなどは,単なる技術的な,それゆえ些細な問題である。従って,分類学は,推定した系統樹に基づいて「自然分類」をすべきであるというのが私の結論である。そして,「自然分類」が,分類学者自身も含め,全ての生物学者にとって一番役に立つ分類でもあると思う。

[2]高次分類群を設定することにも,科学的意義がある。  高次分類群は単系統群でありさえすればよいとすると,高次分類群の設定の仕方は何通りもあることになる。そのうちのどれか一つを「便利さ」という主観的な基準に従って選択することになる。分類群が実用上の単位にも成ることを考えると,この「便利さ」を決して無視すべきことではない。Copeland (1929) の言うように,大きすぎず小さすぎず,そして,認識しやすく定義しやすい高次分類群を,もし可能ならば設定すべきことは当然のことである。  しかしそれでは,単系統な高次分類群でさえ必然的に人為的なものとなってしまうという問題点はどうしても残る。高次分類群が人為的なものであるとすると,その科学的存在意義はないのであろうか?私は,そうは考えない。生物は,基本的には適応放散を何度も繰り返しながら進化してきたと考えられる。たとえば陸上植物においても,シダ植物が初めてあらわれた直後のデボン紀後期には,ヒカゲノカズラ類,トクサ類,ミズニラ類など現存するシダ植物(広義)の祖先が全てそろっていたらしいこと,あるいは被子植物が現れた直後の白亜紀後期には,現存するほとんどの科が生じていたことがわかっている。植物も維管束や花など画期的な器官を獲得すると,その直後には爆発的な適応放散を見せるようである。同様の適応放散は,キク科やイネ科など科のレベル(すなわち,第三紀以降)でも,頻繁に起こっている。このように,短期間に繰り返し種分化を起こしたような種群では,そもそも系統関係を解明することが不可能なものも多いであろう。しかし,このような適応放散した群は,それ自体,単系統群である。また何らかの画期的な適応的形質とそれが役に立つ適応帯を共有することで,他の群から隔たりがあり,一つのまとまった群として容易に認識もされる。これらの条件を満たした群を高次分類群として認めることは,科学的にも意味があるであろう。たとえば植物の科のレベルなら,上記の条件を満たすような群は少なくないと私は考える。なぜなら,近縁な種がほとんどないような種の方が,実際まれだからである。

[3]三中氏の質問に対する返答:”分類学的パターン認識は「誰」にとって「何」の役に立つか?”  三中氏の言う「分類学的パターン認識」=「分類群(TAXON)の認識」であるとすると,[1]の所でも述べたように,種とそれ以上の高次分類群に場合分けして考える必要がある。 (A)種の認識:種の識別・認識すること(マイヤーのいうα分類)は生物学すべての基礎である。これは,単なる分類学者の方便ではない。個体以上で,もし実在する単位があるとすれば,それは種だけであろう。また,実際進化の単位になるのも種(生物学的種)である。したがって種を認識することは全ての生物学者が,自分の研究の生物的操作単位を設定する上で役に立つ。 (B)高次分類群:単系統群であれば,他の多くの生物学者の役に立つであろう。なぜなら,少数の代表種を選び出すのに役立つであろうから。少なくとも,適応放散した単系統群をグループ(高次分類群)として認識することは便利である。なぜなら,それらの中では互いに似ており,そのグループに属さないものとは大きく隔たっているので,その高次分類群を操作単位にすることは,生物学的研究を行うことの労力を大幅に軽減するからである。  しかし,分類学者のつくる分類体系が,たとえば進化生態学者にとっても最適のものであるかどうかになると,そうとは限らないかもしれない。分類学の第一の目標は,地球上の生物の多様性を記載し,その由来・成り立ちを理解することである。単系統群であり(共有派生形質がある),他の群から複数の形質で隔たりのある群(属,科)を設定しておくと,なにより分類学者自身が生物多様性の認識・記載するのに役立つのである。なぜなら,分類学者が未知の場所で最初に植物を認識するのは属や科の単位であり,また属や科があると,種レベルの認識・記載にあたっては,その中だけで詳細な比較をすればよいので,そのための手間も大幅に軽減されるからである。  一方,進化生態学は分類学とは異なる目標(生物多様性がどのように,あるいは,なぜ生じたかを解明する)をもつ。従って,分類学者の用いるのとは異なる生物分類の単位(たとえば地域集団)を採用した方が,研究効率がよいことは十分考えられるからである。分類体系が生物学の他の分野の役に立つことは,分類学にとっては,あくまでも副次的なものである。他の分野での有用性を第一に考えて,分類学者が分類体系を作ることは不可能であろう。

[4]酒井氏の質問に対する返答:分子系統樹を手に入れた今,分類学はどこへいく? (A)公共事業としての分子系統樹作成:我々分類学者は,確かにその気になればいつでも信頼性の高い分子系統樹を得ることが出来る状態になった。それでは,たとえば一通りの植物群について信頼性の高い分子系統樹が既に得られているかと言えば,そうではない。特に,陸上植物の初期分化に関わった大系統群間の系統関係などは,まだよくわかっていない。やればわかる研究をやるのは,あまりおもしろくないので,これは非常につらいことである。しかし,他の進化生物学者にとっても系統樹が不可欠の時代になった以上,公共事業として,分類学者はこのような未解決でかつ多くの進化生物学者が重要と考える系統関係は解いておく必要があるだろう。その際,今だに形態などの当てにならない表現形質を混ぜて系統解析をしたのでは,単に分類学者の自慰的行為にしかならない。DNAの塩基配列情報だけを十分量集めて,信頼に足る分子系統樹を得ることが肝要であると私は考える。 (B)系統樹があって初めて可能になるような進化の研究:これまで,分類学者は系統樹を得ることを最終目的にして研究を行ってきたといっても良いと思う。しかし,分子系統学的手法によって,容易に系統樹が得られるようになった現在,系統樹を得ることが分類学の最終目標ではあり得ないことは自明である。とすれば,これからどうするかであるが,我々分類学者は,分子系統樹という従来の分類学者がもっていなかった新たな観点を得たわけである。この新たな観点を得たがゆえに可能になるような研究を行うことが,現在の分類学にとって(利益/コスト)を最大にする最適戦略であろう。実例としては,遠藤と大場(東京大・博物館,日本植物分類学会96年度大会発表)のサクラ類の果実形態の進化に関する研究などがあげられる。彼らは,バラ科サクラ亜科およびその近縁属の分子系統樹にもとづいて果実形態を比較した。サクラ亜科は,その果実の内果皮が発達し木質化すること,すなわち核果をもつことで特徴づけられてきた分類群である。従来,核果ではなく痩果,袋果をもつと記載されてきたヤマブキ(バラ亜科),リキュウバイ(シモツケ亜科)は,分子系統樹上で,核果をもつサクラ亜科の一部の群(Prinsepiaなど)とごく近縁であることが示された。そこで,その果実形態を発生を追って詳しく調べたところ,ヤマブキ,リキュウバイの果実にも核果と同じ構造が見られることがわかった。すなわち,従来の核果,痩果,袋果といった果実形態の類型化は実体を反映しておらず,当然,その不適当な果実形態に基づくバラ科の分類体系も系統を反映していなかったと言うわけである。形態については実物を心をむなしくして良く見さえすれば,真実が理解できると考えるのは誤りである。特定の観点をしっかりもって見た方が,形態も良く理解できるのである。信頼性の高い分子系統樹という色眼鏡をかけてみたがゆえに,従来の果実形態の理解が間違っていたことに気づいたというのが,上記の研究であろう。このように,正しい系統樹は,新たな問題の発見にも大いに役立つはずである。この利点を生かした研究を考えるのが,これからの分類学者の重要な仕事であると私は思う。 (C)種の実体を解明する研究:系統解析は,たった10年前と較べても飛躍的に容易に行えるようになった.それに対して,種の認識については30年前と較べてもほとんど進歩していないように思える.現在でも植物では種を区別できるできないを基準にして認識しているのが実情である.我々が現在認識している種が生物学的にも本当に意味のある単位かどうかわからないのである.種をどのようにして認識するかは現在でも非常に重要な問題である.この問題は,系統解析とは別に,これから分類学が真剣に取り組む必要があると考えている。  種は従来,形態の不連続性に基づいて類型的に設定された。しかし,類型学的認識が,そもそも科学の基礎としてふさわしくないことは繰り返し議論されてきたことである。なぜなら,視点の選び方によって異なった類型化が常に可能で,最も優れた分類を客観的に選択することが原理的にも不可能だからである。種も,その実体にもとづいて認識しなければならないのである。  種を種として成り立たせている要因としては,遺伝的交流が第一に取り上げられる(マイヤーの生物学的種概念)。しかし,植物のように移動性の低い生物では,地域毎にある程度の分化が見られるのがむしろ普通で,遺伝子交流があるかないかで同種,異種が二分できるような存在の仕方はしていない。  マイヤー自身も後年認めているように,種は遺伝学的な存在であると同時に,生態学的な存在でもある。特異なニッチェを共有して,同じ選択圧を受けることことも場合によっては,遺伝子流動と同等以上に種のまとまりを生み出すことに寄与することがあり得る(Templeton 1989. In ヤSpeciation and its consequences', Otte & Endler [eds.])。私は,(1.実験条件下での交配可能性;2.実際の遺伝子交流の程度;3.遺伝的類縁度・距離;4.基本的ニッチェの一致;5.形態学的不連続性)など複数の尺度で種のあり方を記載し,それらを総合化することによって多元的に種を認識していきたいと考えている(多元的種認識については,秋本(1992, 進化−生態学から見た進化,東大出版会)を参照のこと)。  多元的に種を認識することの欠点は,本年度の植物分類学会大会(三田)で伊藤元己氏(千葉大・理)が指摘したように,種の認識のし方が客観的でなくなることである。しかし,たとえば遺伝子交流の程度という一つの尺度だけに従って種を認識すれば,操作自身は完全に客観的に行えるものの,分類学の生物多様性を記載・認識するという目的や,種の進化を考えるという進化生物学の目的とはそぐわない種の認識になってしまう。ここでは,ある程度主観的な種の認識になることに妥協する方が,科学的研究の生産性を考えると得策かも知れないと私は最近考えている。  いずれにしても,私が上に挙げたような要因が,種のまとまりを生み出すのに重要であることに対して異論はないであろう。これらの要因を,最近の分子生物学的マーカーなどを駆使してきちんと計り,種のあり方をより詳細に調べてみることが現時点では何より重要であることは間違いあるまい。  最後に,資料収集でお世話になった岩槻邦男,小野幹雄両先生に感謝いたします。

[5]4月22日(東北大)のディベートを終えて  私は,これまで分類することそれ自体の科学的意義を真剣に考えてみたことは一度もなかった。このようなとても重要だけれども,普段あまり深く考えたくない(しんどい!!)問題を考える機会を与えてくれた,酒井氏と三中氏にはとても感謝している(これは皮肉ではない)。しかし正直言って(そして非常に残念なことながら),今回のディベートで私は分類すること自体の科学的意義をはっきりと示すことはできなかったと思う。この点については,他の分類学者の助けを借りたい。  一方,「分類学」と「系統学」の関係については,先に主張したように「分類学」の立場から見れば,やはり「系統学」は切っても切れない関係であると思う。しかし,三中氏の言う「系統学」=「系統解析法」の立場から見れば,切っても切れない相手は,何も「分類学」だけではない。現代「系統学」は有効な方法論なので,進化生態学はもとより,集団遺伝学や比較発生学などどんな比較生物学のどの分野にも取り込まれても,その分野の適応度を上げることができる。他の比較生物学の分野が手を組むべき相手は,分類体系ではなく系統樹であるという三中氏の考えは正しい。しかし,それがそのまま「分類学」が「系統学」とは無関係に研究を進めればよいということにはつながらないと私は思う。  もう一つ気になったのは,三中氏が個体をベースにして系統解析をすれば,それだけで「種」だってわかると主張したことである。系統解析すれば,属や科などの高次分類をする以上のことがわかることは同意する。また,個体ベースの系統解析は種のあり方を解析する上でも有用であることも同意する。たとえば,coalescent analyses は私も必ずやって見るつもりである。しかし,個体の系統解析だけで「種」のあり方がわかるとは到底考えられない。「種」が系統的なつながり(近縁性)だけによって形成されているわけではないことは,ランダム交配をしている集団に属する個体が,個体間の近縁度とは無関係に一つの遺伝子プールに属することによって結びつけられうることを考えれば自明である。「種」の認識に関しては,100% tree thinking で行くよりも,group thinkingを交えて,たとえラフであっても個体以上の単位(分類学では種と呼んでいるもの)を設定して,それから系統解析を行う研究の方が生物多様性の研究としては生産的だと私は考える。また,その意味で実際に生物の系統解析を一番効率よく行えるのは,種を認識するときに限ってgroup thinkingもする分類学者だと思う。しかし,今回のディベートで大橋先生が「私は種の実在性を疑っている。」と発言されたことは私にはショックであった。私は,フィールド経験豊富なシニアの分類学者は,皆,「種」の実在性を信じていると思っていた。いずれにしても,「種」の問題については,今回は時間(紙面)不足なので,機会を改めてもっと詳細に論じたい。  一方,酒井氏は生態学者の立場として,分類学者が進化生態学の研究にとっても最も役に立つ様に振る舞ってくれることを期待しているのかも知れない。しかし,それは無理である。分類学と生態学は共に進化を研究課題としながらも,上で述べたように問題設定が完全に異なるからである。問題が異なれば,調べるレベルも必然的に異なってしまう。進化生態学で必要な系統解析(たとえば集団間の)は,進化生態学者自身でやるしかないだろう(分類学者が共同研究という形で手伝うことはもちろん可能だけれども)。とはいえ,分類学者が大まかな(分類学者の言う「種」レベルの)系統樹を出していれば,使う遺伝子の種類の選定や外群の設定などで進化生態学者も大いに助かることは間違いない。その程度には分類学は生態学のお役にたてると思う。これで我慢していただきたい。  大橋先生は,「分類学は他の生物学の僕であり,王様でもある」とおっしゃったが,これは必ずしも正しくない。先にも述べたように,分類学は,他の生物学者の同定のために種を記載するわけではない。逆に他の生物学者の出したデータが分類にそのまま役立つことも私の経験からいえばきわめて稀である。たとえば,私は分子生物学の手法自身は,そのまま大いに使わせていただいているが,自分の興味のある問題に答えるために必要な精度のデータはやはり自分で取らなければいけなかった(データベースに登録されている他人の塩基配列は,そのままでは信用できない)。評論家的に他の人のデータだけを用いて分類をしようとする研究者がいたとしても,決して成功しないと私は確信している。自分でデータを取れない人は,データの吟味ができないからである。分類するための情報は,やはり分類学者自身で取らなければならないのである。従って,分類学は生物学の王様にもなれない。分類学には独自の目標があるのだから,それを前面に押し出すべきであるというのが私の考えである。